なかじまよしお
シンガーソングライター
1960年1月22日、東京生まれ。
30歳を過ぎてから、都内でライブ活動を始める。
2003年2月、自主制作CD「空想旅行」発表。
2004年2月、自主制作CD「スローモーな子」発表。
2005年12月、自主制作CD「ア・キ・テ」発表。
2006年12月、自主制作CD「交響楽」発表。
2007年12月、自主制作CD「君鳥U」発表。
2008年12月、自主制作CD「月夜の散歩」発表。
2009年12月、自主制作CD「君のいない8月」発表。
2014年10月、なかじまよしおwithゆかわよしまさ名義で
自主制作CD「東京クラウン」発表。
2023年7月、なかじまよしおwithゆかわよしまさ名義で
自主製作CD「そしてよだかは」発表。
現在に至る。
誕 生 か ら 大 学 入 学 ま で |
1960年(昭和35年)1月22日東京生まれ。 幼稚園時代にオルガンを習うが挫折。ピアノもバイエルの中途で挫折。 小学校高学年の時、2歳下の弟の担任が学校にギターを持ち込み生徒とうたうという人で、 弟がまずその先生にウクレレを習い、その弟からウクレレを教わる。 次に弟がギターに進出するに伴い同じ道を辿る。ウクレレでもギターでも当時の目標は、 「戦争を知らない子供たち」を弾き語ることだった。 中学の時に自分のギター(マルハというメーカーだった)を買ってもらうと、それからは 学校から帰ってくると、メシとトイレと風呂以外は寝るまでギターを弾いていた。そして 当時はシンガーソングライターブームで、その影響もありすぐにうたをつくり始めるのだが、 メロディーはできるが歌詞が浮かばないことが多く、幼稚園からの友人で当時音楽的にも 意気投合していたNに歌詞を書いてもらい共作することが多かった(このコンビはその後 断続的にではあるが、25年以上も続くことになる)。しかし公立の小 ・中学校でのんびりと 育ってきたのに、高校受験という検問所で、成績のみを唯一の基準として、縦一列に序列 (少なくとも本人にはそう感じられた)が決まってしまうような受験戦争に耐え切れず、 高校受験を境に元々あった内向性が強まり、ポータブルカセットの消去ヘッドを紙でふさぐ ことによる1人多重録音(その後カセットデッキのプラグを半挿しにすることによるステレオ での多重録音に進化)をしたりと音楽的にも内向してゆき、1度も人前でうたうこともなく、 大学受験も一浪してしまう。 |
大 学 入 学 か ら 渡 米 ま で |
2度の受験で唯一合格した神奈川大学に入学すると、いわゆるバンドサークルのポピュラー 音楽部に入部し、始めてのバンド「人間動物園」を同級生と結成(担当はボーカルとギター) し、ビートルズや当時流行っていたナックのコピーなどをして、学祭で始めてのライブを経験 するも、人間関係のもつれからあえなく解散。次にサークル内外において圧倒的な存在感 を示し、スターもしくはカリスマ的存在だった先輩のKが在籍していたバンドのベースに欠員 が生じたという情報をつかみ、ベースを弾いたこともなく持ってもいないくせに、あこがれのK のバンドで演りたい一心で加入を申し出たところ、なぜかすんなりと認められ、上級生の バンドに加入することになる。そのバンドには、その後現在に至るまで長い付き合いになる 湯川賀正(ゆかわよしまさ)もいた。「も」と言うのも、湯川君は好きなタイプのギタリストでは あったが、ミックのキースまたはロッドのロンというような、Kのよき相棒もしくは名バイプレー ヤーという印象の方が当時強かった。このバンドは、「セカンドハンドストアー」と言って、 そのバンド名がジョーウォルシュの曲のタイトルから採られていることが示すように、 アメリカンロックのウエストコーストサウンドの代表格であったイーグルスをめざしていた。 バンドは何回かの定期演奏会で演奏するもメンバーの就職活動のため解散するのだが、 自身のアメリカ(ウエストコースト)熱は高まってゆき、1年ほどビル掃除のバイトで資金を 稼ぎ、ついに渡米することとなる。 |
以下 工事中